病気が全部邪魔をしてくる

僕は今、無職だ。2022.2.15に大学院を中退し、そのまま職に就かず引きこもりニートをしている。

本当は働きたい。いつまでも親のお金に頼っていたくないで自立したいし、働くことで生きる意味を見出したいし、無職というステータスから抜け出したい。でも働くことが叶わない。

 

僕には双極性障害パニック障害(不安障害の一種)がある。双極の方は主に抑うつがメインで、いつも早く死にたいとしか考えていないし、ちょっとしたストレスで自殺未遂を繰り返している。パニック障害については、日常生活圏内にある行動以外の場面において必ずといっていいほど発作を起こして倒れる(物理)。

 

双極についてはがんばれば障害者雇用でも低賃金であっても職を得る状態にはなると思う。仕事に身を入れていれば「死にたい」「苦しい」と長くて暇な一日ではなく何らかの作業をしている一日になるから。(もっとも就職活動は難しいに違いない。2022.2を最後に履歴書に書くことが無く、空白の時間が存在する。何をしていたのかと問われて「病気のため療養していました」と答えても、甘えだとか嘘だとか思われるかもしれない。)

酷く厄介なのはパニック障害の方である。近所のスーパーに行く、よく慣れたルートで電車に乗るなどは一応できるが、外で行なう他のことではパニック発作が起きてしまう。「外で発作を起こして倒れたらどうしよう…」という不安も大きくて、そもそも外にでることができない。

 

人生で一番最初にパニック障害に邪魔をされたのは、進路の変更である。僕は小学生の頃、某全国誌の子ども新聞記者としていろいろな場所を取材しながら記事を書く仕事をしていた。当時文章を書くのが好きで、自分で集めた情報から自分の文字で読者に伝わる記事を書くのが楽しくて、11歳で新聞記者を志すようになった。大学もその夢を叶えるために入った。

20歳の頃、パニック障害が再発した。何をしても治らなくなった。新聞記者は現場での立ち回りの良さも求められる仕事だ。集団の中で立っていると倒れてしまいますとか、事件事故の現場に行くと具合が悪くなりますとか、そんな理由で仕事ができない記者なんて務まるわけがない。仕方がないので僕は新聞記者の夢を諦めた。パニック障害に人生を大きく狂わされた最初の一件になった。

 

今年の1月、まだ大学院中退が決まっていなかった頃、僕は同じ専攻の人たちと同じ足並みで就活をしていた。(僕の専攻は2,3月に就活をする) とある会社の論述審査に受かり、最終審査のために当該会社へ面接に来るようにと言われた。ここまでは順調だった。絶対行こうと決意して、前の夜から就活鞄やスーツなどを綺麗にして張り切っていた。しかしである、当日の朝目覚めた僕は、これから座れもしない通勤ラッシュ帯の満員電車に乗って2時間かけて現地に向かわなければいけない事実に強い恐怖を感じた。それでも就活のためだ、行かなきゃ、と思って全ての準備を終え、玄関で靴を履いてさあ、とドアノブに手をかけたところで動けなくなってしまった。本当に身体が動かない。頭では行かないとと思っているのに、不安と恐怖で足を前に出せないしドアノブも回せない。…結局、会社に電話をかけて面接をキャンセルした。屈辱的だった。パニック障害が恨めしかった。

 

8月、今度は心理学検定の受験があった。得意分野なので4月からありとあらゆる方法でとにかく勉強した。自分で言うのもアレだが、絶対に合格するレベルまで到達しているのは明らかだった。なのに、また就活と同じことが起きた。試験会場は遠くないのだが、部屋に入ったらもう外には出られないし、発作で退席したらもう試験放棄となるし、手元に置けるのは配られたメモ用紙と鉛筆だけなので不安が高まった時に抗不安薬を飲むこともできないし、そんなの絶対に無理。怖すぎる。そんな不安に耐えきれず、僕はまたこの試験に行くことができなかった。¥30000の受験料と今までの努力を全部無駄にした僕は、パニック障害への恨みと共に、僕はもう何を努力しても全て無駄になってしまう運命に位置付けられた人間なんだということを悟った。精神障害で入退院を繰り返しながらも取った大学・大学院の単位も、就活も、資格試験も、全部無駄足掻き。

 

この先もまだ足掻きしながら苦しんで生きるくらいなら、もう早く死にたい。努力に裏切られて頑張りが報われない人生なんて要らない。

生まれたくなかった。心からそう思う。

双極性障害が嫌いだ

双極性障害って、結構面倒な病気なんじゃないか。これは誰かに迷惑をかけるという"面倒"ではなく(うつ状態で仕事を頻繁に休むとか、躁状態で騒ぎ散らかして警察のお世話になるとかいうのは僕は無いので)、自分の中でコントロールがつかずにどうしようもなくなる"面倒"を指す。

 

いつ発症したのか定かではないが、明らかに病的だなという感覚でいくと、双極性障害を患って7年になる。

 

最初は軽いうつ病だと思っていた。なんだか気分が落ち込んで、何もしたくなく、誰とも会いたくなく、死にたくて、リストカットをしていた。抗うつ薬を飲めばそのうち治るんじゃないかな、うつ病は治る病気だから、大学受験の疲れや大学でどうしても良い成績を残す必要があってそれがストレスになっていて、そのストレスから解放されれば(つまり学部2年生の9月になれば)だんだんと治ってくるんだろうなと軽視していた。

 

でも学部3年生になっても一向に治る気配が無い。上手く勉強している最中は幸せというか充実感があるけど、他の時は虚無感とか焦燥、不安、無気力、希死念慮ばかりでどうせならなにも感じたくなくなってしまう。そのうち希死念慮がずーーーっと続くようになってきて、大きなストレスとなる出来事があると本当に今すぐ飛び降りてしまいそうになる、そんな状態が常態化してきた。結局、学部3年生の終盤、自殺のリスクが高すぎて1,2月初めて入院するまで至った。

 

学部4年になってからはもっと悪くなった。大学院試験へのプレッシャーから、院試の倍率が10倍だから必死に勉強しつつ、ずっと死にたくて突発的に自殺しそうになって6月に入院した。双極性障害とは直接的には関係が無いが、中学2年の頃から患っている不安障害も増悪してきて10,11月にも入院した。学部3年の時に感じられていた幸せも充実感もどこかへ消え去ってしまった。

 

大学院での3年間は本当に終わっていた。学部の時は基本的に休まずに行けていた講義を半分以上休み、毎日希死念慮が酷くて苦しく、もう抗うつ薬など効かないに等しかったので強い抗精神病薬を使ってなんとか気を紛らわせていた。薬で楽にはなれなかったけど、惰性で飲んでいた。院生1年の終盤2月と、3年終盤の2,3月は自殺しそうになって入院までした。結局、あまりにも講義を休むのと、修論を書くための実験がこなせなかったので、大学院は修了できずに退学した。

 

今は完全にニートをしている。就職できない一番のネックは不安障害で外に出ることすらままならない日が多いことだが、双極性障害も僕の人生をめちゃくちゃにしてくる。ラミクタール®という気分安定薬を使うようになってからだいぶ楽になってはきたが、それでもどうしようもない希死念慮に襲われては腕をずたずたに切ってしまう。意識があるのが耐えられなくてベンゾジアゼピン系の鎮静薬を大量に飲んで昏睡することを繰り返す。それでいて馬鹿みたいにエネルギーがある時期があって、勉強したりゲームをしたりで夜眠らない日がある。今この記事でお気持ちを垂れ流しているのも、やや躁転気味でなにかを書き散らしたくなったからである。(もっとも希死念慮と焦燥と自傷はやめられないので、単なる躁ではなく躁鬱混合状態だと思われる。良くない。) 仕事ができるエネルギーはどこにも無いし、強い不安感で社会に出ることができない。

 

なぜ僕はこんなに面倒な病気を抱えてしまったのか。2,3年に一度は親の都合で転居を繰り返して学校を転々としていたせいか、小学生の頃海外暮らしを強いられて当時はつらくなかったのだが子どもの内面に環境の大きな変化による苦しみがあったせいか、中学校での酷いいじめのせいか、最初の精神障害の発症から5年間医療につながれなかったせいか(これは僕が何度病院に連れて行ってくれと頼んでも「気持ちの問題だから笑」と言って放っておいた親が悪い)、簡単に過去ばかり呪って、何が悪いのかわからないが、

僕は、双極性障害が嫌いだ。

精神科開放入院22~33日目(退院)

〈入院22日目〉

朝から死にたみが強くてしんどく、抑うつも重くて何もできなくなった。ただ横になって天井をぼーっと見上げるのみ。

某看護師にとあるバイトにチャレンジしてみようと思っていると話したら、「東大卒がそんなことしなくていいのにー、もっと●●とかあるでしょう」と言われてだいぶ傷ついた。それってその仕事見下してるってことだよね?それに●●のバイトは僕の病状的にできないから諦めたんだよ。なんとか見つけた道を簡単に否定しないでほしかった…

夢や希望を持つ度に裏切られる。もう自分の人生に期待することをやめたい。夢を抱いても結局ただ傷つくだけだから。

 

〈入院23日目〉

昨日より死にたみはマシだけど、抑うつがまだ重い。カフェインで賦活できないかなと思って初めてモンスターエナジーを飲んだ。実際少し賦活されてゲームに手をつけることができた。

 

〈入院24日目〉

抑うつも焦燥も無くて良い感じ。

ラミクタール®が150mg(開始用量25mg)まで増えた。ラミクタール®は効いていると思う。50mgで腕を切る自傷が止まったし、75mgで涙が止まった。

 

〈入院25日目〉

退院したくなくなってきた。家に帰ったらまた死にたくて焦燥で苦しい毎日が戻ってくる。

心理士や看護師、作業療法士が軽いノリで「将来の夢は?」と聞いてきて、本当に苦しい。将来もなにも、僕はずっと病気で生きたくなくて、退学したするので学業もせず、無職でお金は稼げず、結婚できる見込みも無いから、生きる術も希望もありませんが…

 

〈入院26日目〉

病気が良くなって働いて自立したいというよりも、良くなる見込みも無いし疲れちゃったからもう早く死にたいなと思う。

人生が罰ゲームにしか思えない。いつどこでどんな悪行をして罰ゲームを受けることになったんですか?

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〈入院27日目〉

論文リジェクト退学就職失敗なんてまだ生ぬるかったのかもしれない。完璧のバッキバキに人生が壊れないと変に未練が残って良くない。飛び降りて死ぬか一生残る重い後遺症でも得ないと僕は自分に期待してしまうのをやめられない。

生きたいと思える人生が手に入る方法を僕はまだ知らない。

 

〈入院28日目〉

退院後のことを考えると死にたくなる。入院しても僕のこれからは開拓されたわけではなく、ただ1カ月延命されただけ。

 

〈入院29日目〉

ナースコールのコードで首を絞めそうで怖くて、短いコードの物に変えてもらった。変えてくださいと頼んだら、看護師が直接的な表現を使わずに「その方が(短い方が)安心?」とだけ聞いてきてそのまま変えてくれ、プロだなと思った。

 

〈入院30日目〉

主治医から「2018年より病状良くなってない?」と言われてつらかった。確かに入院回数は減ったけど、2018年頃はまだ人生の目標があって何かをする気力もあり動けていてたまに急性悪化という感じだったんだけど、今は毎日死にたい死にたいばかり考えていて何もできなくなっている。むしろ壊れているのに…わかってもらえてなかったんだなと思った。

 

〈入院31日目〉

これはとても醜いのだが、医師、看護師、事務職、Twitterのフォロワーなど働いている人や学業が上手くいっている人に対して「お前は人生なんとかなってるじゃん」と僻むようになってしまった。信じられるのは心身の不調などで休職/休学/無職の人だけ。

 

〈入院32日目〉

特記無し。

 

〈入院33日目〉

退院。

1週間後、1カ月後、1年後、自分がどこで何をしているのかまったく見えなくて苦しい。不安で押しつぶされそう。夢も希望も将来も無いし、ちょっとでも期待したら裏切られた時に傷つくだけだから、もう自分に期待なんてしたくない。

惰性で生きていくことになった。

『命に嫌われている』という曲がそのまま僕を代弁している。軽々しく死にたいだとか言う僕は、生きる意味なんて見出せず、無駄を自覚して息をしている。絶望なんて言葉でこの傷はあらわせない。

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精神科開放入院21日目

主治医と両親と僕とで面談をした。

父親はなんとしてでも実家に連れ戻すつもりでいた。「まずはゆっくり休んで…」とか言っていた。その「ゆっくり休む」っていうのは今やっているんであって「まず」じゃあないんですわ。あと父親は"休む=肉体的休息"だと思っているみたいだけど、休むというのは必ずしも肉体的に動かないことは意味せず、ストレッサーから離れて精神的に休息することを指します。理解してくれ。

母親も僕を実家に連れ戻したいけれど、母親自身が仕事の都合で21:00~翌6:30しか家にいないのを引け目に思っているので、強制的に帰って来いとは言いづらく、僕の意思をある程度尊重しますと言った。

僕の意思が固いので、最終的に僕は東京で一人暮らしをして、障害年金訪問看護、精神科デイケアなどを利用して生きていくことになった。良かった。

 

そして退院日が3月5日に決まったけど、次の通院先をクリニックじゃなくて有床病院にされて笑ってしまった。そんなのまた入院する日が来ること前提になってるじゃん…

精神科開放入院20日目

夢と現実の区別がつかない。

昨日の深夜に眠れなくてヒルナミン®を貰いに行ったのが夢だったか現実だったかわからなくて困惑している。今転換性障害(解離)で歩けないんだけど、ナースステーションに行く時立って歩いていた気がするし、記憶の中にあるナースステーションも別の病院の構造だったから、夢だったのかな。

あと、共用洗面所で大きな音をたてて痰を吐く患者がいて、別の患者が看護師に「あの音が不快だから止めてほしい」と訴えて以来音がしなくなったという夢をみた気がするんだが、実際その日以降音はしなくなり、当該患者が退院していったのか夢じゃなくて現実だったのかもわからないままになっている。

 

今日はとても仲の良い友だちと3時間くらいLINE通話して楽しかった。

 

明日、主治医と両親と僕とで面談がある。退学・無職になる僕の今後について話し合うためである。両親は絶対に実家に帰らせようとするし、主治医も実家に戻るのを勧めてくる。でも僕はどうしても実家には帰りたくない。なおこの実家、高校2年生の秋から高校3年生の終わりまでの1年4カ月しか住んでいない、あまり思い入れの無い家です。

まず、生きる手段としての自傷が全部絶たれるのが無理。腕を切ることもODすることもお酒を飲むこともできなくなったら、苦しすぎて生き甲斐もなにも無くなってしまう。でもまあこんなことは医師にも両親にも言えない。

2つ目、別に実家に帰ったところで僕の安全が保てるわけではない。確かに24時間誰にも見られることなく生活している方が比較的危ないのではあるが、実家は実家で親は21:00~翌6:30しか家にいない。無意味。夜に親がいるとお酒を飲めないので、朝起きてすぐストロングチューハイを飲みまくることになる(実際去年の7月に1カ月間帰省してた時もこれだった)。

3つ目、僕は実家で何をして過ごせばいいんですか?デイケアもアルバイトも定職も、田舎である実家よりも今住んでいる東京の方が自明に多い。東京にいれば友だちにも会える。実家でなにもせず無為に過ごすの本当に嫌。

4つ目、僕は親のことが嫌い。13歳の時にパニック障害摂食障害を発症して、親に病院に連れて行ってくれないかと頼んだら「そんなの気の持ちようだよ」と言われて、僕が実家を出て一人で病院に行けるようになるまでの5年間病気を放置させられた。そのせいでパニック障害は治らなくなってしまったし、気分障害も併発した。本当に憎い。一昨年入院した時に母親が「あの時ちゃんと病院に連れて行ってあげればよかったんです」とか言っていたが100年遅い。反省のパフォーマンスしてあの子かわいそう私かわいそうとか悦に入っていて腹が立つ。

だから実家には帰りたくない。親と主治医に反論して説得しないといけない。鬱。

精神科開放入院16~19日目

〈入院16日目〉

希死念慮と焦燥が落ち着いてきた。

 

〈入院17日目〉

看護師に勧められて集団認知行動療法に参加してきたんだけど、全部もう知っている内容しかなかった。途中のワークで過去に役立った励ましの言葉を思い返してみようと言われて、入院直前全力で死にに行っていた僕をギリギリで止めた信頼する精神科医の言葉「僕たちはいつでもあなたの味方だから  助けるから  (病院に)来てね」というのを思い出して泣きそうになった。

ラミクタール®が125mg(開始用量25mg)に増えた。

 

〈入院18日目〉

行動制限解除!病棟から出られるようになった。嬉しい。

 

〈入院19日目〉

友だちとLINE通話で喋って楽しかった。でも調子が上向きすぎて躁っぽくそわそわしてきたのでジプレキサ®を飲んだ。

精神科開放入院15日目

※14日目の日記は特筆すべきこと無し。脚がまったく動かなかったのが動くようになった。立ったり歩いたりはまだできない。食事の下膳や投薬、入浴のために車椅子で移動する僕を、廊下でほかの患者さんたちが助けてくださる。優しい。

 

朝から焦燥が酷くてずっと身体を揺らしている。ジプレキサ®でギリギリ耐える。

 

人々、みんな「自分のペースでいいから」とか言うけど無責任だよね。居場所や職があって安定している人がそれを言うのは上から目線じゃん。こっちはなにも無いから困っている。自分のペースでやったら社会的地位を失うんだけど、それをわかって言ってる?わかってないよね。優しいふりをして口で言うのは簡単で、言った側は安定していて、いいよな。

 

カンザキイオリさんの『あの夏が飽和する。』のラスト、「誰も何も悪くないよ。君は何も悪くはないから もういいよ。投げ出してしまおう。そう言って欲しかったのだろう?なあ?」が心に響く。僕はなにも悪くなかったって言ってほしい。人生を投げ出したい。

 

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